投稿日時 2025-06-12 17:35:09 投稿者 ![]() 斎賀久遠 このユーザのマイページへ お気に入りユーザ登録 |
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6話:「鼻鳴(びめい)様と、くしゃみを許された僕」 春の風が吹き抜ける校門前。 しかし、今年は風がなぜか冷たい。 まるで“誰かの息”みたいに、首筋をなぞっていく。 「はい、ティッシュ! 今日も清らかな音でね!」 霧島志乃が“ポケットティッシュ”を配り始めて、もう1週間。 ……誰もが受け取っていた。断れなかった。 いや、断った生徒は……いなくなった。 「おはようございます」 「志乃ちゃん、今日のやつ……また新しい香り?」 「……なんか、鼻かむと視線が集まる気がするのは気のせい?」 「え、志乃ちゃんの前で”鼻すする”ってアウトなんだっけ?」 「なんか最近、みんな”鼻すする”の我慢してない?」 志乃が配るティッシュは、ただの”ポケットティッシュ”だ。 でも、みんな少しずつ、“それ以外”で鼻をかむのが怖くなっていった。 誰も決めていないのに、志乃のティッシュ以外を使うと妙な空気になる。 誰かが志乃の前で鼻をすすると、妙に重い空気が教室に流れる。 みんなが一斉にそっちを見る。「静かにしなよ」って視線。 それがだんだんエスカレートして、 「鼻鳴(びめい)様」って、誰かがふざけて言い出した。 笑いながらも、みんなもう志乃の前で鼻をすすれなくなっていく。 何気なく教室で鼻をすすると、その瞬間、クラス全員の視線が集まるようになった。 「今、聞こえた?」 「……あれ、志乃ちゃんの前で鼻すするのってダメなんだっけ?」 ──どこからともなく「鼻音を立てると“彼女”が来る」という噂が流れ始める。 今や校内では、誰も志乃の前で鼻をすすることができない。 誰かがうっかりやってしまうと、クラス中が妙な沈黙に包まれる。 「やば、また“鼻鳴(びめい)様”来るかもよ……」 冗談めかした声と、それを真に受けてビクつく生徒たち。 本気で信じてるのか、それとも空気を壊したくないだけなのか――。 誰も彼女を本気で怖がっているとは言わないが、 気がつけば「志乃のティッシュ=音の封印」というルールが生まれていた。 そんな空気が、じわじわと校内全体を支配しつつある。 春が終わる頃、生徒たちは徐々に気づき始める。 本来なら、もうティッシュなんて必要ないはずなのに。 なのに、まだ配られている。 毎朝。志乃の笑顔とともに。 そんなある日――。 昼休み、静まり返った教室に、 「……へっくしょい!!」 と、くっきり響くくしゃみの音。 クラス全員の視線が、スローモーションみたいに音の主へ向く。 志乃の視線も、そちらへ。 だが、そのときだけ――志乃の表情が、ほんの一瞬だけふわりと綻ぶ。 佐々木空也。 この学校でただ一人、 霧島志乃に「音を出してもいい」と思われている人間。 「……ごめん、花粉が残っててさ」 空也はいつものように自分のハンカチで鼻をかむ。 その音が、教室の静けさにやけに澄んで響く。 志乃は、ほかの生徒に配る時とはまるで違う、優しく柔らかな声で、 「空也くん。よかったら、これ」 と、彼のためだけに用意したようなティッシュを差し出す。 ――それは他の誰にも見せない、特別な笑顔。 でも空也は首を振る。 「ううん、自分のがあるから大丈夫」 志乃はそれ以上勧めない。ただ、静かに彼の返事に微笑むだけ。 そのやりとりに、周りの生徒たちが一瞬だけ息を呑む。 「あれ、志乃ちゃん、空也くんには怒らないんだ……」 「むしろ嬉しそう……?」 実は、志乃は空也の出す音だけが特別だった。 空也のくしゃみも、鼻をかむ音も――余計な雑音のない、澄んだ音を全部ひとりじめしたい。 だからこそ、校内の“雑音”をひとつ残らず消そうとする。 「清らかな音で、お願いしますね」 今日も志乃は言う。 でも、その声は空也にだけ、どこか甘やかすように響く。 教室の片隅で、空也の音だけが、変わらず澄んで響いている。 なぜなら、この学校で唯一、 “志乃にとって特別な音”が、まだここに残っているからだ。 |
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